2010年3月21日日曜日

首相のリーダーシップ

問い:強い首相と言われた中曽根康弘と小泉純一郎のリーダーシップについて述べよ

「大統領的首相」を目指した中曽根と「自民党をぶっ壊す」と宣言して首相になった小泉は、戦後日本において、例外的に長期政権を維持し続け、そのリーダーシップが強かったとされている。
しかし、両者には違いがある。つまり、小選挙区制導入や内閣府設置などのリーダーシップの取れる(強くなれる)制度改革の後に、小泉は登場したのであり、中曽根とは強さの基盤が違っていたのである。
ここでは、戦後(55年体制以降)の首相のリーダーシップがなぜ弱かったのかを述べた後、中曽根・小泉の強さについて触れ、両者の異同を述べる。

細川政権による政権交代に至るまで、自民党は衆院で過半数を維持し続けた*1。議院内閣制であれば、過半数与党によって選ばれた首相は、大統領制のような議会による抵抗を受けにくい。首相は、多数派の与党をコントールすることで、自らの選好を容易に実現できるはずである。しかし、日本の首相のリーダーシップは弱かった。首相は与党議員を統制できず、与党は首相の政策追求に修正を強制したり、拒否権を持ったのである。
首相、つまり与党の党首が議員をコントロールする資源として、①選挙の公認権、②政治資金、③人事権があると言われる。選挙に落ちればタダの人である議員が、当選と出世を目指すというのは妥当な想定である。つまり、首相は、公認権を持つことで選挙の当落に影響を及ぼしたり、政治資金を握ることで選挙活動量の大小を決定づけたりして、議員の生命維持の鍵を握ることが可能であり、当選を果たしてもポスト配分権を握ることで、議員を統制できる。
中選挙区制という世界でも稀な選挙制度を採っていた日本では、大政党は一つの選挙区に複数の候補者を立てる必要があった。そのため、同じ選挙区で自民党候補者同士での争いが生じた。党内には、派閥間の争いがあり、各派閥は領袖を中心に勢力拡大を目指した。そのため、自民党公認を得られなかった新人候補も、対立候補と異なる派閥の支援を受けることで当選を果たすことが可能だった。このことから、首相のリーダーシップを高める第一の要素である公認権は、あまり意味あるものとならなかった。さらに、第二の要素である政治資金も派閥の領袖によって賄われる事が多く、この側面でも首相は強くなりえなかった。
中選挙区制での、選挙区内の自民党議員の票割り戦略として、区内地域分割による票割りと利益集団*2との結びつきによるセクター割り戦略があるとされる。セクター割の結果、各議員は利益集団を代表することになり、両者の間には票とカネを含む密接な関係が生まれた。この結びつきは、内閣の方針に集団で抵抗し影響力を持った「族議員」を生じさせ、首相のリーダーシップをさらに弱くした。
第三の要素である人事権も、当選回数によるシニオリティ制が確立して以降、首相の権限が及ぶ範囲は大きなく、リーダーシップを支えることは難しかった。

以上のように、首相が強くなれる資源が小さかった戦後日本の政治状況であるが、中曽根は三公社民営化などの行政改革・規制緩和を成し遂げた。中曽根は、党内でも少数派閥の領袖であり、派閥の連合体である自民党では、他派閥の力を借りなければ、強いリーダーどころか首相にもなれなかった。そのため、中曽根は、田中角栄率いる田中派と連携することで首相になり、田中派の後藤田正晴を内閣の要である官房長官に起用するなどして田中派と提携した。田中曽根内閣という当時の批判は、中曽根が如何に、田中派を重視していたかを物語っている。田中派という数の力を持つことで、中曽根は派閥がもたらしたリーダーシップの縛りを脱そうとしたのである。
だが、中曽根が利用した資源は、田中派だけではなかった。中曽根は、世論の支持を自らの強いリーダーシップの資源にしたのである。中曽根は世論に敏感であり、自らの政策に対する世論の支持調達が目指されたのである。さらに、中曽根は、派閥や族議員の抵抗を避けるために、審議会を多用した。審議会では、第2次臨調に国民の受けが良かった「めざしの土光」こと経団連会長土光敏夫を起用し続けるなどして、世論にも配慮していた。
このように、中曽根は、世論や審議会を戦略的に利用することで、強い首相でいられたのである。それは、制度的な権限が制限されている米国の大統領*3が、世論を足がかりにして自らの選好を追求する姿と重なる。つまり、党内はでなく、世論を自らの権力の資源とした中曽根は大統領的な首相であったのである。

次に、小泉の強さを見る。
中曽根政権以降、小選挙区制度や政党助成金制度が導入された。小選挙区制では、選挙区政治おいて公認権の持つ意味が大きい。中選挙区時代と違い、保守系無所属含む同じ自民党候補は原則一人になった。中選挙区時代は、有権者の投票行動は自民党という政党ラベルではなく候補者個人ラベルに拠っていたが、自民党候補が原則一人の小選挙区では政党ラベルの持つ意味が格段に高まった。そのために、各候補者にとって公認を党から得ることが重要になった。つまり、第一の議員をコントロールする資源である公認権を握った首相=党代表は強くなったのである。第2の資源であるカネの側面を見る。政党助成金制度の導入で、各派閥に集められ派閥所属議員に配られる資金の重要性が低下した。政党助成金は国庫から政党に与えられる政治資金であるが、このカネの配分を決められるのは党執行部であった。つまり、首相=党代表は各議員の政治資金への影響力を高めることで強くなれたのである*4。
このように、議院内閣制のもと、与党党首の党内コントロール権が高まることで、首相は強くなれるようになったのである。
「自民党をぶっ壊す」と言った小泉が強い首相になれたのも、それまでの分極的な自民党がぶっ壊れていて、党代表への権力集中が背景にあったのである。世論を重視したという面では、大統領的首相の中曽根と同様であるが、小泉は、理念型の議院内閣制が本来持ちえる首相への権力集中という制度的な資源にも支えられていたのである。





*1当選後の無所属候補の入党を含む。
*2農業団体・中小企業・医師会などなど
*3http://kei-24.blogspot.com/2010/03/blog-post_15.html
*4さらには、内閣府設置など行政・官僚制でも、強い首相を支える資源を導く制度改革がなされた。首相の直接の指示を受けるスタッフが増えたことで、官僚制内部の抵抗を食い止める資源となった。また、経済財政諮問会議などを重宝することで、政策形成の面でも行政・官僚をバイパスしようとした。

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