2010年12月11日土曜日

Yamamoto

アメリカのドラマTHE WEST WING(ザ・ホワイトハウス)の3rdシーズンを見ていたら,レオ(首席補佐官)とフィッツ(統合参謀本部議長?)の会話で「Yamamoto」という単語が出てきた.
アメリカにテロをしかけようとした某国政府の閣僚の暗殺を巡る議論の中でである.「Yamamoto」とは,第二次世界大戦中に,それまでになかった(?)個人を狙った攻撃で殺された山本五十六元帥のことを指している.
ふと,思ったのは,「Yamamoto」という名は,未だに米国で知られているのかということだ.政府のナンバー2と軍のトップが知っているのは当然として,ドラマで注釈なく流されるということは一般市民の間でもそれなりに認知度があると考えられる.
ということは,多分アメリカの歴史の教科書か何かで,真珠湾を攻撃させた人物として取り上げられているんであろうか?
多分,そうなんだろうが,日本の高校日本史教科書ではたしか太字にもなっていない程の軽い扱いだっただけに,山本五十六の名が日本よりも米国で知られているのであれば,何か寂しいことだと思った*1.

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さるお方よりご指摘を受け,高校の教科書を確認したところ,五十六の名は出ていませんでした.失礼しました.(十二月二十日追記)



*1阿川弘之『山本五十六』を随分昔に読んで,割と好印象を抱ける人物だと思っているからです.

2010年11月4日木曜日

また止められた.

ゲート君にまたもや止められた.

うっかりカバンにレンタルDVD*1を入れてたのを忘れて,図書館に入ってしまった.
気付いたときには,既に遅しで,のんびり新聞読んでから館を出ようとする.
鳴るか鳴らんか,緊張が走りつつも,痛くないようにゆっくりとゲートを通ろうとする.

ピー.はい鳴った.上から図書館員さんが降りてくる.

DVD入った黄色のバッグを出して待つ.
図書館員さんに渡して,ゲートを通る.鳴らない.やはりDVDのせいである.



生協食堂に豚汁うどんが復活した.1杯260円で野菜や肉やうどんを食べられる栄養豊富な一品である.ただ時間によって,汁の濃さや具材の量が違うので,要注意である.


*1いかがわしいのではなくTWWのでございました.

2010年10月5日火曜日

止められる.

最近図書館入り口のセンサー付きゲートによく引っかかる.

誰かのように高級そうな古本を持ち出して売ろうとした・・・のではなく,レンタルしたDVDを持っていたからである.持っていても鳴らない時もあるので,どうやら大した見極め力のないゲートのようだ.

勢い良く外に出ようとしたら,ゲートの強烈な力で止められる.少し痛いのである.さらに,いくらしょっちゅう誤作動しているゲートだからと言って,周囲にはなんかやらかしたと思われてしまう.ちょっと恥ずかしい.

だいたい新聞閲覧室しか行ってないのにどないして図書盗むんやと,ゲート君に言っても仕方のない事を思ったりもする.

DVDを持っていかなきゃ,解決するが,いちいち部屋に戻って返却しに行くのも面倒くさい.
というわけで,今日この頃は,図書館を出るときに緊張しているのである.

2010年7月4日日曜日

KKV or DSI

地上が終わり,B日程の試験は受けないことに決めたので,筆記試験は秋までないはず。秋のは教養だけの試験だから,専門科目の勉強はしなくても良い。

面接の対策とか,ESを書いたりせなあかんのやけれど,時間的な余裕が少しは出てきた(来週も面接のために実家に帰る必要がある・・・)。


ということで,2回生以来,通読できぬまま図書館で借りては返しを繰り返していた



をついに購入した。
著者たちの頭文字を取ったKKVって略称が定着しているのだと思っていたがDSI(Designing Social Inquiry)と本の名前からの略称で言ったりもするらしい。

読み終わって気が向いたら感想を書こうと思う。

2010年6月29日火曜日

参院比例

地元帰ったので,期日前投票に行ってきた。

選挙区は4人しか出ておらず政党も違う。新聞報道で情勢も分かるから,誰にするかはすぐに決められた。

問題は比例区である。政党名書いて(ろくでもないかもしれない)候補のお手助けしても癪なので,候補者名を書こうと思った。しかし,これていった候補者を思いつかなかった。しょうがないので,候補者アンケートを見たり,ホームページ見たりして情報収集したが,喜んで投票したいと思える候補がいない。

結局,時間切れで,その時点で一番良さそうと思えた人物の名を書いた。



政策メインに参院比例で名前を書こうとするとコストが大きすぎると思った。こうなると知り合いに頼まれたりとか握手したとか,選挙活動も大事やろなと思った。

2010年6月25日金曜日

掃除

実家に帰る前はいつも部屋の掃除をする。
今日はちょっと時間がかかってしまった。

ということで某県庁受験のために帰ります。
距離は圧倒的に近いのに、東京行くよりも時間がかかるというところが難点ですが・・

2010年6月19日土曜日

はじめての駒場

東大駒場キャンパスに行った。

まず,最寄り駅からの近さに驚いた。渋谷で宿泊地を探し1時間ほど迷子になった僕でも余裕で見つけられた。なんせ,駅を出たらいきなりど真ん前に鎮座ましましているのであったのだ。

ここでS先生とかT先生も学ばれたのかと若干の感慨を覚えつつ中へ入る。さすがに広い。樹木も結構ある。

さて,昼休み。昼食を食べに,食堂に向かう。やたらと現代的な建物が食堂であった。しかし,学生さんが一杯いたので,何だか嫌になり,購買へ向かう。ウーム,うちの購買よりも品揃えが良いし,値段も安い。
うらやましいと思って,380円位の弁当を食べたが,味はそれほどでもなかった。

構内をうろつく。図書館を発見した。紹介状がないとアカンと聞いていたが,一応,係の人に入れんか聞いてみる。やはり無理だった。
うちの大学でさせ,近所のおじ様や中高生が平気でいるのに,駒場は案外(当然?),厳しいなと思った。

2010年6月16日水曜日

さんいんせん

会期延長せず,低い法案成立率で国会がしまっちゃいました。
ということは,いよいよ選挙です。

民主党が過半数を取れるかどうかが最大の問題でせうが,注目ポイント(あまり真面目じゃない)をメモっておきます。

・比例で出てるプロ野球OBで一番得票が多いのは誰か?堀内,エモやん,中畑が出ております。堀内以外は小政党なのでその政党が好きでその中ならこの人っていう票はあまり見込めません。逆に,堀内は自民党なので,自民党支持者からの票が少しは見込めるでせう。というと堀内がトップかと言うと,議員経験のあるエモやんは個人後援会も残っているでせうから,個人票が見込めるかと思います。なので,エモやんが割と票を得るのではないかと予想。
・新党(特にみんなの党)の選挙区と比例の連動効果(選挙区でも候補者出馬による比例上澄み効果)。通らなさそうなのに選挙区でも候補者を立てる党がありますが,出さなかった選挙区と比例得票でどれだけ差が出るのか?
・民主党比例84才の新人(この方http://www.dpj.or.jp/special/go_saninsen2010/?detail_4138=1)が当選出来るか?調べてないけど,当選すれば史上最高齢の新人国会議員ではないかとおもうんですが。というか良く公認が出たなと思いました。非拘束だからかな。

2010年6月10日木曜日

しんこうけいかく

さてさて,1回目の東京侵攻が一週間後に迫ってきました。

永田町に行ってDietの見学をしたい。欲を言えば,LDPやDPJのビルも見たいものだ。さらに欲を言えば,代々木や信濃町も見たいが,こっち離れているようなので無理だろう。
政治好き*1として東京まで行って永田町に行かないのは許される事ではない(笑)。


しかし,日本の国会は何故にDietなんだろうか?
米国ならCongress,英国ならParliamentというのは辞書を引けば載っている。
Dietって言うと,食べ物か痩せるダイエットが思い浮かぶ私にはthe Dietでは何だか威厳なく感じてしまう。

*観察の対象として好きなだけ。

2010年6月5日土曜日

とぶ

飛行機とホテルの予約してたらこんな時間(2時半前)になってしまった。

ネットで予約してコンビニで金払って,飛び立つ20分前に行けばいい,という便利さに驚いた。どうも飛行機というと仰々しい手続きを踏まえんとダメと言う固定観念があったので。

ホテルは,徒歩圏内のところに泊まろうと思ったが,そんなところはないようだった。沿線上の若者の街(テレビとかでそう言ってた気がする)の駅付近の安ホテルにした。

飛行機は高校以来,東京は中学以来,2度目なので,遠足前の小学生のようなワクワク感もなくはないが・・観光じゃなくて試験が目的なだけにそういうものは振り払わんとあかん。

2010年5月30日日曜日

日本の一党優位体制

問い:日本における一党優位体制の成立,持続,危機について,論じなさい。

一党優位体制とは,サルトーリによる政党システムの分類の一種で,複数政党による競争があるものの,ある政党が他党を圧倒し継続的に政権を握っていることである。日本では,1955年に自民党が誕生して以来,政権を握りつつけ,一党優位であったと指摘出来る。以下では,その成立,持続,危機について述べる。

1955年,社会党再統一受けて,自由党と日本民主党が保守合同を行い,統一保守政党である自民党が誕生した。これ以後の政治体制は55年体制とも表されるが,1ヵ2分の1体制とも言われた様に,自民党と最大野党社会党の議席数には大きな隔たりがあった。社会党は,自民党に及ぶこともなく,60年代以後は,公明党や民社党が登場により野党勢力が多党化し,減退した。自民党は,衆議院で過半数以上の議席を握り続け,他の政党に比べて優位であった。
中選挙区制の下で,自民党候補者同士が争うことにより,派閥間競争は活発化した。党内競争は,派閥間対立を生んだが,新自由クラブ結成以外の大規模な離党行動はなく,自民党の活性化に役立ったと指摘出来る。
選挙においては,自民党候補者が各個人で後援会などの集票ツールを使った。個人による集票によって,票の掘り起こしが盛んになされ,自民党の底辺を支えた。
集票戦略上,各利益団体との結びつきを各候補者が強めることで政策の守備範囲も広かった。順調な経済に支えられて,各層への自民党による利益分配は可能だった。
階層集中的な支持によるのではなく,より広範囲な層からの支持を獲得した自民党は唯一の包括政党として,長期的な優位状況が可能だった。


時代を経るに連れて,状況は変化した。
冷戦崩壊の結果,保守が一丸となる必要性が薄れていた。相次ぐ政治汚職の結果,有権者の自民党への反感が募っていた。高度経済成長の終わりによって右肩上がりの経済成長の限界が見えていたが,バブル経済の崩壊によって,増え続けるパイを分配するのみでは立ち行かなくなった。利益配分のトレードオフ関係がより明確になったのである。
一党優位は危機を迎えたのである。

93総選挙前に,政治改革を旗印にした小沢一郎や武村正義らが離党した。自民党は過半数を握れず,政権を握れなかった。
政党の議席数でみると依然として自民党が第一党であった。政権復帰後も第一党であり続けたが,他党との連立を強いられた。このように93年の自民党政権崩壊以後は,自民党の優位は揺らぎ,一党優位の状況は変化した。
現在は,09年の政権交代に見られるように,小選挙区導入の効果もあって,一党優位から2大政党制に近づきつつあると考えられる。

2010年4月28日水曜日

現代日本の政治家像


レポート用にこの本を読んだのだが(全部は読んでないが),面白かったのでご紹介。

今や県知事の蒲島郁夫のゼミメンバーによる論文集である。つまり,東大の学生らが書いたものを編んだ本なのである。
今井亮佑先生や尾野嘉邦先生,話題の菅原琢先生のような学問の道に進まれた人*1のも含まれている。内容は,90年代の日本の政治家についての様々な焦点からの分析である。計量的手法も使われているが,分けが分からん複雑怪奇なレベルではない。

さらに言うと,レポートどうやって書いて良いか分からんという僕みたいな人には,東大の法学部生が如何なる様に書いているかを見て,参考にするのもいいだろう。

*1お三方は,他の論文等で見かけたことがあるので,研究者になられていると認識した。他にもいらっしゃるのかもしれない。

2010年4月22日木曜日

レポート考2

もうあと一週間で研究計画*1を発表せねばあかんのだけれども,依然としてパッとした問いが思い浮かばない。なので,とりあえず,暫定案をメモっておく。

なぜ小沢一郎ら羽田派やさきがけのように,政権党自民党から議員が離党したのか?というのをやろうかと思ったが,建林(2002*2)とかレヴァイアサン17号の河野論文や大嶽論文でお腹一杯になったので,やめである。観点変えてやればOKという先生からのご示唆もあったが,自分としてはまあ納得出来る説明が得られたので,問いへの執着というものが湧かなくなった。もし,やっても大したものは出来んだろうし。

ということで,この離党行動への興味から移って,離党した人の中で,園田博之や船田元のように自民党に戻った議員と,そのまま野党に残って今民主党にいる議員がいるが,彼らの政党所属行動を分けたものは何か?という問いが浮かんだ。まあ,短めに言うと,「一定の自民党離党者は,なぜ復党したのか?」というものである。

小沢さんとの人間関係とか,自民党からの引き抜き工作とかのジャーナリスティックなお話は,読んだことがあるが,政治学としての学問的説明として耐えられるもの*3は,今だ発見していない。なので,この問いは,やりがいがありそうである。(読者諸氏の皆様で,何かこの問いに答えている研究をご存知なら,是非お教え下さい)

それで,さっき書いた建林を参考にしてやろうかと。
建林は,合理的選択論の観点から,議員が「再選」「政策」「昇進」という目標のために合理的に行動するとして,離党を説明してます。
なので,離党したものの,これらの目標が達成しくそうだと感じた議員,つまりは目測を誤った議員が自民党に戻ったのではないだろうかというのを仮説にして分析しようかと。

具体的な作業は,まずは離党者と復党者の把握。つぎに,復党者の選挙区状況とか,党内ポジション(政策・昇進に関係)を叙述する。ケース数が多ければ,得票状況とかを計量的に見てみるのも良いだろう。
復党しなかった議員との比較するのは,必須の作業だから,これは忘れちゃダメだ。

問題点は,いろいろあるだろから,また今度考えよう。




*1「研究」などと呼べるシロモノになるはずもないが,そう呼べるものを目指すという気持ち自体は大切にしたいので,こう呼んでおこう。
*2http://ci.nii.ac.jp/naid/110000465049
*3その場その場の事象を単に記述するのではなく,より一貫性を持ちうる説明くらいの意味。大げさに言うと,理論的に説明するということかな?

2010年4月10日土曜日

レポート考

さてさて,授業も始まりましたが,ゼミ系の授業の発表の日程が早速決まりました。

準備に取り掛からなければいかんのですが,構想が全然まとまらんので,ここに雑然としたメモを残しておこうかと。

テーマは「政権交代」に関係することなら何でも良いとのことなので,その裏返しとして「何故,自民党は長期政権たりえたのか?」という大きめな問いがまず浮かびました。

はじめに浮かんだ仮説。

擬似政権交代仮説:60s70s自民党は,派閥対立が加速化し,首相の交代は「擬似政権交代」であった。いわば,自民党は,各派閥の合従連衡体であり,党内に主流派(与党)と非主流派(野党)を抱えていた。有権者が内閣を支持しなくとも,党内政権交代をすることで対応できた。

この仮説で進めるなら,まずは「擬似政権交代」って何?という問題に対処しなくてはいけない。というか「政権交代」って何?という問いにまず答えなければいけない。首班指名で首相に投票し,内閣を構成する政党が与党であるとするなら,その与党の構成が変化することが最広義の定義だろう。しかし,自・社・さ→自単独だって政権の構成は変わっているが,これを通常「政権交代」とは言わない。「政権交代」では与党の主要な政党の変化が通常イメージされる。この主要なってのが難しいところで,日本みたいに過半数には届かなくともかつての自社さ・自自公連立政権のように明らかに自民党の議席が優位って状態ならば,自民党は主要な与党って言ってもいい気がする。
でも,ヨーロッパの多極共存型のデモクラシーのように各与党の議席の差が少ないと,その判断は難しい。
例えば,選挙前A党80B党70C党60D党50E党40の議席(合計:300)でA党C党E党の与党という状態があるとする。選挙後,A党49B党81C党60D党70E党40の議席を得て,与党がC党D党E党に変化したら,主要な政党がA党からD党に変化し政権交代したと呼べるのだろうか?
このように「政権交代」ってのは,主要な政党がハッキリするイギリス型の2大政党制では分りやすい概念だが,多党制からなる政党制の国には当てはめにくい概念なのではないかと。
なので,自民党を党内政党である派閥の合従連衡と見て,総裁選での支持関係で与党派閥構成の変化を叙述しても難しいかな。とするとこの仮説はぼつだな。
いや,でも「擬似政権交代」っていう概念を使うのがダメなだけで,派閥が党内政党として機能していて,自民党内の競争が激しく,総裁の交代がある程度有権者を満足させる政策の急な変化をもたらすことが出来たというのはありかもしれない。
80年代以降の総主流化や小選挙区制導入後の派閥の弱体化によって,派閥対立が薄まった結果,総裁が変わっても大して政策は変化しなくなったという見方が出来るなら,書けるかも。小泉以後の安倍・福田を経てようやく大きな政府志向の麻生になったという遅い政策の変化っていう見方もあり得るだろうし。

しかし,全く逆の,派閥対立全盛期こそ族議員の活躍などによって党内が分権的であり,総裁が変わっても政権の政策は全然変化していなかったという見方もあり得る(というかこっちのが合ってそう)よな・・。

4月16日追加。オタクなテーマではなく正統で時間の都合が許すものを模索することにしました。

2010年4月3日土曜日

政治主導

問い:「政治主導」について自由に論じなさい。

「政治主導」という言葉は、国民によって選ばれたわけではない行政・官僚による「政治」ではなく、国民が選んだ代表である政治家を中心に「政治」を行う、という意味で使われることが多いように思われる。しかし、「政治家」の範囲やレベルが不明確であり、「政治」主導の意味は、その使われ方によって大きく変化する。

例をいくつか挙げる。田中角栄による公共事業の地元誘致も政治家による政治には違いなく、政治主導である。各利益団体と結びついた族議員が、内閣の決定に介入しその政策を歪めるのも、政治家に政策決定であり、政治主導である。小泉純一郎による一連の改革も、首相主導・官邸主導と呼ばれたように、トップやその周辺を中心としたポストを占めた政治家による政治であり、政治主導であった。鳩山由紀夫による政務三役の活用は、各省レベルで政治家(政務三役)による決定を実質化しようとするものであり、これまた政治主導である。

このように、政治主導は幅広い現象を捉える概念であるために、分析概念としては抽象度が高過ぎる。ここでは、鳩山民主党政権が使う「政治主導」の意味を考える。

「政治主導」に込められた意図は、3点に分けられると思われる。1点目は、その最低限の定義である、政策決定の主導権を官僚から政治家に移すということである。官僚の天下りやハコモノ行政の失敗などの現象を受けて、国民の官僚観は悪化している。民主党は、この官僚批判を背景にして、官僚から政治家に主導権を取り戻し行政改革の断行を企図することで、国民からの支持を集めようとした。
2点目は、与党政治家による不適切な内閣の政策決定への介入を排除することである。自民党政権時代、官僚や利益団体と結びついた族議員が、首相や大臣の決定に対して、政調会などの自民党内部での審議過程を通して拒否権を持っていたために、しばしば族議員による政策介入が行われた。そこでは、族の部分利益が優先され、国家全体の一般的な利益が損なわれた。民主党は、このような政治家主導を排除し、内閣に政策の決定権を持たせようとしていた。政調会の廃止はその表れであり、与党議員の意見は政務三役などを通して反映される余地はあるものの、基本的には内閣が政策決定の意思決定を担うことが目指された。
3点目は、内閣内部における政治主導の徹底である。小泉内閣において、総理を中心にしたトップダウンの政策決定が見られたが、郵政や高速道路など注目を集めた分野は限定的であった。大臣ポストこそ、従来の自民党の慣行を無視した人事であったが、副大臣・政務官では、派閥均衡型の人事が見られた。かつて、「盲腸」とまで言われた政務次官制度からの改革によって導入された副大臣・政務官制度であるが、その実質的な機能はそれほど上昇していたとは思われない。そこで、民主党は、政務三役の増員・活用を目指し、大臣とチームとして一体的に運用したのである。このことによって、内閣あるいは執政内部での政治家の役割を増加させようとしたのである。

以上をまとめると、民主党政権の「政治主導」は、党に残った政治家ではなく、内閣に入った政治家よる一体的な政策決定を目指すものと考えられる。つまり、イギリス型のウェストミンスターモデルを理想型として、そのような統治形態を目指していると考えられる。そこでは、野党に代表される民意や国会での審議の意味は非常に薄れる。国会は、審議によって政策の変更を目指すのではなく、内閣と野党が国民に向けて議論するだけの劇場になる。劇場化した国会の機能低下を批判する政治家や研究者がいるだろうが、政治決定の責任者がより明確になるという点では、ウェストミンスター型の政治主導は有意義である。

2010年4月2日金曜日

「卒論」考

うちの法学部には卒論がないのですが、4年間の学びの集大成(?)として何か書きたいと思っているわけです。ただ、ゼミに所属していない私ですので(かつては所属していたんですがね・・)、形式的にちゃんした「卒論」は書けないんですよね。でも、うちの学部には何を研究しても良いという「自主研究」っていう科目があるので、後期にこれ取って何か書こうと思います。

それで、どんな内容にするかというのをちょっと考えておこうかと。

内容を大きく分けると、一つはこれまでやったレポートを精緻化して進化させる方法があり、もう一つは今までと方向性を変えてなんかやるというのがあります。

前者の既存のレポの進化ですが、今までやったのは、①ある政令指定都市を対象に、市長と議会の権力関係を、政党所属を踏まえつつ財政データや議案の審議状況を使って分析したやつ、②中選挙区制下の自民党議員の選挙の強さ(指標:対次点投票率)が、議員の行動(どんな族議員にどの程度なるか・有力度(指標:大臣や党役職の経験))にどう関係するかを分析したやつ③戦前日本政治史の分析を基に、歴史研究と理論研究の融合の可能性を考察したやつがあります。③はちょっと進化するのは無理なので、既存進化なら①②のどっちかだなぁ。①なら、他の政令指定都市まで対象を広げつつ、「権力」や「二元代表制」の理論的な考察をするという進化かな。先生も真の因果関係の分析なら統計的にやらんとあかんって言うてはったし。でも、データがやたら入手しにくいっていう難点があるんだよな・・。②は、前の学期にやったやつですが、これも分析対象が限られていたという弱点を解消するのと、もっと高度な計量分析でより精緻な分析をしたいという希望があるので、やり直したい。先生からのコメントがまだないので、これを待って検討だな。

方向性を変えるというと、いろいろやりたいのはあるんですよね。なので、一ヶ月位前から日課にしている一日一論文読むを利用して、関心分野の先行研究を読んでみようかと。

まあ、その前に公務員試験に受かるかとか、受からん場合(受かってもだが)入「院」するか、という進路問題を解決せねばいかんのだが・・。

2010年3月27日土曜日

「アメリカ化」する日本政治学

twitterで話題だった(?)「思想地図vol.5」の菅原琢氏の「アメリカ化」する日本政治学を読む。


計量分析という研究手法が浸透し、仮説検証型スタイルの論文が増えたという点で、日本の政治学はアメリカ化している。しかし、ポスト競争が激しい若手研究者の間では、「上の人」に目をつけられては不都合があるため、ある論文に間違いを見つけても反証することができない。日本の政治学界は、若手・非正規研究者と正規研究者との格差社会なのである。


みたいなことが書かれていた。そういえば、筆者が師匠である蒲島郁夫(の研究)を反証していた論文を読んだ時に、こんなこと書いちゃって干されたりしないのかと心配になったことがあるが、蒲島知事はある意味封建社会の日本の政治学界で学ばずにアメリカで学んだ研究者だから、反証はむしろWelcomeなのだろう。

ただ、僕が直接知っている数少ないレヴァイアサン系の先生方が、自分や自分の弟子の研究が反証されたことで、反証した人を嫌うほど度量の小さい人たちだとはとても思えない*1。なので、感覚的には筆者の主張がわからない。むしろ、非政治科学な先生の方が自説へのこだわりが強い気がしていたし。

政治学界の内情が公けに語られることって全然無い気がするので、こういう貴重なご提言がなされるのは良い事だと、ただの学部生である私は思いました。

*1もちろん実際に反証を試みたわけではない。まあ、ただの学部生に分かってしまうほどの明白さを持って「上の人」然とするわけないのだが・。

2010年3月24日水曜日

前期授業

ようやく「成績」「シラバス」が発表され、10前期に取る授業がほぼ確定。

政治思想系の科目が二つ(集中講義含む)と英語文献を読みのとゼミ系のやつである。これで要卒が取れることになるのだが、英語のとゼミ系がかなりおもしろそうだが大変そうである。

まず、英語文献のだが、Mathew D. McCubbins、Weingast、John Ferejohn・・・いろいろ指定されている。一回30ページくらい読むらしいのだが、ポリサイ的な、統計的なのを理解できるのだろうか。APSRにのっている論文を眺めて全然意味不明という印象を抱いたという悪しき記憶があるのだが・。しかも、院と同じ授業だから、ただの学部生である人間がついていけるのかなという気もある。
まあ、こんなことを言っていても仕方が無いし、面白そうなのばかりだから、執念深くやってみようかなと。

ゼミ系のは、授業名からしてタネ本になされるに違いないと思っていたTSMの3人本の指定は無く、「政権交代」がテーマらしい。タイムリーな題でこれまた興味深いんですが、この授業はある意味必修なのでやる気ない感じの報告を聞かされる可能性が大なのがイヤなんですよね。とある先生のように拒否的抑止な表現(?)をお使いになられて人数減らしをなされるようなことはないだろうし・・。しょーもない報告すんなと自分が思われないように頑張りたいと思います。

追加:後日、政治思想系の授業の配当回生でないことが判明。特別講義扱いにしろよと思わなくはないが・・。2単位分考えなくては。

2010年3月21日日曜日

首相のリーダーシップ

問い:強い首相と言われた中曽根康弘と小泉純一郎のリーダーシップについて述べよ

「大統領的首相」を目指した中曽根と「自民党をぶっ壊す」と宣言して首相になった小泉は、戦後日本において、例外的に長期政権を維持し続け、そのリーダーシップが強かったとされている。
しかし、両者には違いがある。つまり、小選挙区制導入や内閣府設置などのリーダーシップの取れる(強くなれる)制度改革の後に、小泉は登場したのであり、中曽根とは強さの基盤が違っていたのである。
ここでは、戦後(55年体制以降)の首相のリーダーシップがなぜ弱かったのかを述べた後、中曽根・小泉の強さについて触れ、両者の異同を述べる。

細川政権による政権交代に至るまで、自民党は衆院で過半数を維持し続けた*1。議院内閣制であれば、過半数与党によって選ばれた首相は、大統領制のような議会による抵抗を受けにくい。首相は、多数派の与党をコントールすることで、自らの選好を容易に実現できるはずである。しかし、日本の首相のリーダーシップは弱かった。首相は与党議員を統制できず、与党は首相の政策追求に修正を強制したり、拒否権を持ったのである。
首相、つまり与党の党首が議員をコントロールする資源として、①選挙の公認権、②政治資金、③人事権があると言われる。選挙に落ちればタダの人である議員が、当選と出世を目指すというのは妥当な想定である。つまり、首相は、公認権を持つことで選挙の当落に影響を及ぼしたり、政治資金を握ることで選挙活動量の大小を決定づけたりして、議員の生命維持の鍵を握ることが可能であり、当選を果たしてもポスト配分権を握ることで、議員を統制できる。
中選挙区制という世界でも稀な選挙制度を採っていた日本では、大政党は一つの選挙区に複数の候補者を立てる必要があった。そのため、同じ選挙区で自民党候補者同士での争いが生じた。党内には、派閥間の争いがあり、各派閥は領袖を中心に勢力拡大を目指した。そのため、自民党公認を得られなかった新人候補も、対立候補と異なる派閥の支援を受けることで当選を果たすことが可能だった。このことから、首相のリーダーシップを高める第一の要素である公認権は、あまり意味あるものとならなかった。さらに、第二の要素である政治資金も派閥の領袖によって賄われる事が多く、この側面でも首相は強くなりえなかった。
中選挙区制での、選挙区内の自民党議員の票割り戦略として、区内地域分割による票割りと利益集団*2との結びつきによるセクター割り戦略があるとされる。セクター割の結果、各議員は利益集団を代表することになり、両者の間には票とカネを含む密接な関係が生まれた。この結びつきは、内閣の方針に集団で抵抗し影響力を持った「族議員」を生じさせ、首相のリーダーシップをさらに弱くした。
第三の要素である人事権も、当選回数によるシニオリティ制が確立して以降、首相の権限が及ぶ範囲は大きなく、リーダーシップを支えることは難しかった。

以上のように、首相が強くなれる資源が小さかった戦後日本の政治状況であるが、中曽根は三公社民営化などの行政改革・規制緩和を成し遂げた。中曽根は、党内でも少数派閥の領袖であり、派閥の連合体である自民党では、他派閥の力を借りなければ、強いリーダーどころか首相にもなれなかった。そのため、中曽根は、田中角栄率いる田中派と連携することで首相になり、田中派の後藤田正晴を内閣の要である官房長官に起用するなどして田中派と提携した。田中曽根内閣という当時の批判は、中曽根が如何に、田中派を重視していたかを物語っている。田中派という数の力を持つことで、中曽根は派閥がもたらしたリーダーシップの縛りを脱そうとしたのである。
だが、中曽根が利用した資源は、田中派だけではなかった。中曽根は、世論の支持を自らの強いリーダーシップの資源にしたのである。中曽根は世論に敏感であり、自らの政策に対する世論の支持調達が目指されたのである。さらに、中曽根は、派閥や族議員の抵抗を避けるために、審議会を多用した。審議会では、第2次臨調に国民の受けが良かった「めざしの土光」こと経団連会長土光敏夫を起用し続けるなどして、世論にも配慮していた。
このように、中曽根は、世論や審議会を戦略的に利用することで、強い首相でいられたのである。それは、制度的な権限が制限されている米国の大統領*3が、世論を足がかりにして自らの選好を追求する姿と重なる。つまり、党内はでなく、世論を自らの権力の資源とした中曽根は大統領的な首相であったのである。

次に、小泉の強さを見る。
中曽根政権以降、小選挙区制度や政党助成金制度が導入された。小選挙区制では、選挙区政治おいて公認権の持つ意味が大きい。中選挙区時代と違い、保守系無所属含む同じ自民党候補は原則一人になった。中選挙区時代は、有権者の投票行動は自民党という政党ラベルではなく候補者個人ラベルに拠っていたが、自民党候補が原則一人の小選挙区では政党ラベルの持つ意味が格段に高まった。そのために、各候補者にとって公認を党から得ることが重要になった。つまり、第一の議員をコントロールする資源である公認権を握った首相=党代表は強くなったのである。第2の資源であるカネの側面を見る。政党助成金制度の導入で、各派閥に集められ派閥所属議員に配られる資金の重要性が低下した。政党助成金は国庫から政党に与えられる政治資金であるが、このカネの配分を決められるのは党執行部であった。つまり、首相=党代表は各議員の政治資金への影響力を高めることで強くなれたのである*4。
このように、議院内閣制のもと、与党党首の党内コントロール権が高まることで、首相は強くなれるようになったのである。
「自民党をぶっ壊す」と言った小泉が強い首相になれたのも、それまでの分極的な自民党がぶっ壊れていて、党代表への権力集中が背景にあったのである。世論を重視したという面では、大統領的首相の中曽根と同様であるが、小泉は、理念型の議院内閣制が本来持ちえる首相への権力集中という制度的な資源にも支えられていたのである。





*1当選後の無所属候補の入党を含む。
*2農業団体・中小企業・医師会などなど
*3http://kei-24.blogspot.com/2010/03/blog-post_15.html
*4さらには、内閣府設置など行政・官僚制でも、強い首相を支える資源を導く制度改革がなされた。首相の直接の指示を受けるスタッフが増えたことで、官僚制内部の抵抗を食い止める資源となった。また、経済財政諮問会議などを重宝することで、政策形成の面でも行政・官僚をバイパスしようとした。

2010年3月18日木曜日

地方政治と全国政治

問い:現代日本における地方政治と全国政治の関係について自由に論じなさい

全国政治とは、いわゆる「永田町」周辺で日々行われている中央政府の政治であると解し、ここでは選挙過程政治について論じる。

日本の国会議員は、特に自民党議員の場合であるが、地方政治家を動員して集票を行っている。例えば、参議院選と統一地方選挙が同年に行われた場合に、参院選の投票率が下がる現象について、統一地方選で疲弊した地方議員の動員が進まないためであるという説明があったように、地方政治家は全国政治のアクターである国会議員の選挙に関係している。

県や政令市レベルでは、議員の政党化が進んでいる。そのために、中央と地方の政治家が、政党所属を通じて密接に関係している。町村レベルでは、共産党や公明党所属の議員は散見されるが、多くの議員が無所属である。しかし、多くは保守系であると言われ、自民党政権時代は自民党国会議員と関係を結んでいた。
中選挙区制時代においては、自民党候補同士の地域分割の影響もあり、保守系地方議員の多くが、自民党国会議員と系列関係にあった。さらに、一党優位体制にあった自民党国会議員は、地元にハコモノなどの利益を誘導していたことが、ジャーナリズムや政治学者から指摘されている。つまり、地方議員は国会議員の集票を助け、国会議員は地方政治家の選好に適う地元利益を誘導する「票と地元利益」の交換関係があったと指摘できる。
国会議員と地方政治家との間に主従関係やある種のクライアンティズムがあったという論者もいるが、上述のように相互互換的側面もあり、イタリアのような厳格なクライアンティズムではなかったと考えられる。しかし、中央集権である以上国会議員の方が権限を持ち得たために、国会議員優位の関係があったであろう。

このように、政党と選挙を通じて、両者のリンクが見られた。

2010年3月17日水曜日

二元代表制

問い:二元代表制について思うところを述べよ

二元代表制とは、執政部の長と議会のメンバーがそれぞれ有権者に選ばれた正統な代表であることを基礎とする統治形態である。執政部の長が通常一名なのに対し、議会議員は多数存在する。そのため、執政部の長が、全地域的な代表であるのに対して、議員は各地域や各集団の代表であり、両者が代表する利益に差異が生じる。すなわち、二元代表制は、議員を通して多様な要求を吸い上げつつも、長が地域全体を代表することで、両者の間に抑制や協働が生まれ、より良く有権者の意思を活かそうとするものである。

二元代表制の例の一つとして、米国の大統領制が挙げられる。執政長官たる大統領と、各州や各選挙区ごとに選ばれる議員の二元代表が、それぞれ権力を分有しつつ、統治を行っているのである。しかし、二元代表制という言葉で語られることの多くは、日本の地方政府についてである。地方議会が、首長に対してあまりにも従属的で、議会独自の機能を発揮していないという二元代表制の実体への批判的な見方がその背景にある。そのため、議会基本条例の導入などの地方議会改革が行われたのである。

地方議会への批判は、議会のオール与党化体制などの議会と首長の党派性の一致が、議会の首長への監視機能を低下させているという見方を背景にしているように思われる。議会と首長は独立の機関であって、議院内閣制とは異なり与党も野党もなく、議会は首長の党派性と関係なく行動すべきだという主張がその背景にある。確かに、国政での与野党が、地方首長選挙で相乗りすることは珍しくない。さらに、首長側の提案を議会が修正したり否決したりすることも多くない。これらの事実は、一見すると、議会が首長に対して影響力を発揮していないという見方を支持するものである。

だが、議会のフォーマルな場で影響力を発揮していないからと言って二元代表の機能低下を指摘するのは、早合点である。首長が、選挙に出馬するときには、支持する政党と政策について協議することが考えられる。多くの政党と選挙での支持関係を結ぶことで、より広い民意を集約しているのである。これは、レイプハルトが提起した多極共存の合意型民主主義システムの変形と捉えることも出来うる。さらに、首長提出案が、提出前に議会の意見を組み入れていたり、議会による抵抗が予想されるものは提案されなかったりしている可能性がある。よって、議会が明示的に首長に抵抗していないからと言って二元代表制の機能不全を指摘するのは不適切である。
党派性というラベルが、有権者の選択コストを低下させるのであるから、むしろ議会議員は党派性を強調する事で部分的な政策的な民意を代表しやすくなる。二元代表の片方である議会で多様な利益を集約して、首長は議会との協調を行い、二元代表の過度な対立によって統治が滞ることを避け、効率的な運営を行っているという見方もありえる。

2010年3月16日火曜日

選挙制度と政党制

問い:選挙制度と政党制の関係について述べよ

まず、それぞれの意味するところを述べる。そして、両者の関係を理論的に論じ、日本を事例にして検証する。

選挙制度は、定数の大小、代表の仕方、投票の方法によって分けることができる。第一に、定数で分類すると、一つの選挙区から一人を選ぶ小選挙区制と複数人を選ぶ大選挙区制に分けられる。第二に、代表の仕方で分類すると、定数内で多数の得票をした候補者が順に当選する多数代表制と定数の範囲内で得られた票の比率に応じて議席を配分する比例代表制がある。さらに、多数代表制は、小選挙区制において過半数の得票を必要とする絶対多数代表制と相対的に最大の得票を得れば良いという相対多数代表制に分けられる。第三に、投票の仕方であるが、候補者名を書くか政党名を書くかという分類がある。さらに、候補者名ならば、何名の候補者を書くかという分類が出来る。定数と同じだけ候補者名を書く完全連記制や、複数の定数であるが一名しか名前だけの名前を書く単記制がある。

次に、政党制について述べる。政党制とは、政党の相互的な関係性を意味するものである。具体的には、政党の数や政党の大きさ、さらには政党間の政策空間での立ち位置の違いなどによって分類できる。サルトーリは、以下のような分類を示している。第一に、競争的な複数政党があるものの一党が政権を支配し、その状態が有権者や野党にも受け入れられている一党優位体制が挙げられる。第二に、競争的な二つの政党が、政権交代を繰り返す二大政党制が挙げられる。第三は、3つ以上の政党が存在し、複数の政党が連立して政権を形成する傾向のある多党制がある。さらに、多党制は、政党間の政策の差異が極端でなく、政権が安定化しやすい穏健な多党制と政党間の政策が極端に異なり、政党数も穏健な多党制と比べて多い傾向にあって、政権が不安定化しやすい分極的な政党制が挙げられる。

選挙制度と政党制の関係について述べる。まず、定数が候補者数に影響するという指摘がある。S・リードが提示した候補者数がM(定数)+1になるという見方がある。リードの議論は候補者数が焦点であるが、政党の数は、候補者数によって影響されうる。次に、代表制の観点ではデュベルジェが論じたように多数代表である小選挙区においては政党数が2になり、比例代表制では多党制になるという法則が指摘されている。さらに、投票の方法を考えると、単記制では同じ政党に属する候補者に一票しか入れられないが、連記制では定数と同じだけ政党に票を与えることが出来る。そのため、単記制であれば、多党化や候補者個人のラベルが重視されるために各政党の規律が弱まる傾向が指摘できる。逆に、連記制であれば、政党がまとまって集票できる結果、政党の数が少なくなる可能性を指摘できる。

戦後の日本の選挙制度は、衆議院選挙では中選挙区制だった。中選挙区制は、ひとつの選挙区から3~5名の当選者を出すシステムである。M+1ルールに基づくと最大で6の政党が勢力を持ちうるが、自民・社会・民社・公明・共産の5政党に、新自由クラブや他の革新系の政党が存在したことは、M+1の法則と政党の数の関係を示唆するものだと考えられる。
中選挙区制では、議会過半数を獲得するため、自民党は一つの選挙区に複数名を立てなければならなかった。しかも、有権者は一人の候補者の名前しか書けない単記制であった。そのために、候補者は党ではなく個人で集票しなくてならなくなり、派閥や族議員が生まれ、自民党は中央集権の政党ではなく、分極的な政党になった。
中選挙区制には、党ラベルや政策ではなく個人が集票の鍵となるため、利益誘導が生まれたという批判があった。このような批判的な見方を背景に、90年代初頭に導入されたのが小選挙区比例代表並立制であった。小選挙区制の導入には、政党同士が政策を競い合う二大政党制を実現しようという狙いがあった。選挙制度が政党制を導くという政治工学的な見方があったのである。
民主党による政権交代の背景として小選挙区制が挙げられる。たしかに、現在では、自民・民主の議席割合は高いが、衆院では公明党、共産党、社民党という有力な第3第4第5の政党が存在した。この状況については、小選挙区だけでなく比例代表性が並立されたことの効果や、政党の集票を担う地方議員が小選挙区ではなく中選挙区で選ばれることの効果が、小選挙区がもたらす二大政党制への効果を阻害しているという指摘ができる。さらに、自民党議員が党ではなく個人を基礎とする集票システムであったために、所属する政党が流動的になっても当選を続けられ、政党ラベルを必要としかなかった。そのために、二大政党へのインセンティブが低く、政党システムの収斂がおきにくかったとも考えられる。

以上のように、選挙制度と政党システムは因果関係を持ちうる。しかし、日本の事例で考えたように、選挙制度以外の文脈にも政党システムは影響される。

2010年3月15日月曜日

大統領制と議院内閣制

問い:大統領と首相はどっちが権力を持っているか?
このポピュラーな問いに答えるのは、実は難しい。

ノーベル賞受賞などアメリカ合衆国大統領の活躍をニュースで見聞きするのに、日本の総理大臣は隠然たる力を持つ与党幹事長に振り回されていて、なんとなく頼りない気がする。
でも、オバマが医療保険改革に苦労しているように、現実にはアメリカの大統領も絶対的な王様ではない。いや、むしろ、日本の首相よりも権力を持っていないかもしれないのである。

民主主義の大事な柱として「三権分立」という言葉を中学校くらいで習う。法律を作る立法権・法律を適用する司法権・それら以外の国家作用を担う行政権が3つの権力である。

アメリカでは、権力の集中は独裁を生み、良くないものだと考えられていて、「三権分立」がなされている。大統領と議会には、権力の融合はない。すなわち、行政権の担い手である大統領も立法権を担う議会議員も、国民がそれぞれ直接に選ぶ。大統領は議会を解散できないし、議会は大統領を選ぶわけでもないので大統領を解任することも出来ないのである*1。
議会は民主党と共和党の二大政党が牛耳っているが、議会多数派の政党と大統領の政党が異なる可能性がある(この状態を分割政府という)。たとえ分割政府でも、大統領は議会の多数派を変えようと議会を解散することはできないし、議会は大統領を選び直せない。権力の分立のために、大統領の行いたい政策が議会によって阻まれるのである。

日本では、国民によって選ばれた国会議員が首相を選び、首相は衆院を解散できる。首相と議会は融合的な権力関係なのである。そのため、議会多数派と首相の政党が不一致はおこりにくい*2。首相と議会多数派が一致するために、首相の政策は議会に拒否されることは少ないと考えられる。

このように、日本の首相は大統領のように議会に抵抗されず、より権力を持っていると考えられる。

しかし、印象は、弱い首相であった。

この印象は、何も理由のないことではない。政党の規律という視点が説明してくれる。規律というのは、議員が党によってコントロールされるということである。
日本では、自民党政権時代、中選挙区制という3~5名の当選者を出す選挙システムであった。自民党は、複数名の当選者を出す必要があった。候補者は、自民党という政党カンバンだけでは他の自民党候補と重なるために、候補者個人をアピールする必要があった。自民党候補者は個人後援会を作って集票を目指し、自民党中央地方組織への依存は少なかった。そのために、自民党議員は、党の意向に従属的になる必要がなかったのである。つまり、自民党の総裁=首相が、ある政策を追求しようとしても、規律が弱いために、議会へのコントロールができなかったのである。その結果、派閥や族議員の抵抗が生じ、首相は弱かったのである*3。
弱い首相を強くしようというのが、小選挙区並立制導入などの政治改革であった。この制度改革によって、選挙の公認権と政党助成金というカネを支配することで、党の規律が強化された。このような制度的に強くなれる資源の上昇と本人のキャラクターによって、強い首相という印象を与えたのが、小泉純一郎であった。

民主党政権になったが、鳩山総理には小泉のように強いという印象がない。これは、鳩山総理が小泉型のトップダウンの意思決定ではなく、コンセンサス重視の政治スタイルであるというのが原因であろう。強くなることが出来ても、本人の意思次第で、合意型の政権運営にもなり得るのである*4。


さて、問いに戻る。大統領制の例としてアメリカ、議院内閣制の例として日本を挙げた。しかし、大統領制を採る国が全てアメリカ型かというとそうではない。議会と大統領の権力関係が融合されていたり、アメリカの大統領にはない、議会に対して法案の提出する権利を持つ大統領がいるなど、アメリカ型よりも議会の抵抗を排除できる強い大統領がいる。議院内閣制も、日本のように政権与党が巨大な第一党と小さい政党によって構成されれば、首相は強くなり得るが、複数連立与党でかつ政党間で絶えず主導権争いを余儀なくされる状況になれば、首相は弱くなりうる。また、政党の規律が低ければ、首相の指導力は発揮できず、首相は弱くなる。

つまり、問いの答えは、大統領と首相を比べた場合、一概にはどちらが権力を持っているかはわからないということである。


なお、権力とは何か、という問いはここでは言及しなかった。
*1犯罪を犯したときに開かれる弾劾裁判を除く
*2首相は、最終的には衆院の指名によって選ばれるので、参院の多数派と首相の政党が異なる分割政府は起こり得る。
*3中曽根康弘は強い首相であったする見方があるが、ここでは言及しない
*4しかし、民主党幹事長である小沢一郎が、党の規律権を握っているような印象もある。

2010年3月14日日曜日

「日本の地方政治 二元代表制政府の政策選択」

曽我謙悟・待鳥聡史『日本の地方政治 二元代表制政府の政策選択』(名大出版会 07年)
レヴァイアサン(44号)」(09年4月刊)でこの本の座談会をやっていた。そこに4人の写真が載っていたのだが(著者2名、伊藤修一郎先生、司会?の増山幹高先生)、春に出た雑誌やのに、何でこんな服装なんだ?(確か半袖の先生も)と思ったと記憶している。春(4月15日)に出たんだから、まあ、座談会は冬(1月とか)だろうと勝手に想像したのだが、甘かった。最後に実施日が書かれていたが、それは前年の夏であったのだ。そういえば、毎号真っ先に読まれるという「編集後記」で、某先生が編集作業の愚痴を書かれていたが、研究者自身が雑誌の編集するというのは大変な苦労なんだろうな。他の書評とかの兼ね合いとか調整とかなんだかんだで、半年以上経って、満を持しての掲載だったのであろう(勝手な邪推。なお編集担当の先生が次の46号から変わるらしい。)。
それと、朝日とか日経(?)だったかでもこの本は取り上げられていた。朝日については小林良彰先生が書いたのがネット上にあったので、そちらを参照。
そういう周辺情報はここらで止めて、内容の話しに入りたい。二人の研究者の完全な共同研究によって書かれたこの本は、戦後日本の地方政治で、知事と議会(二元代表)の党派性や党派構成といった政治変数が政策に影響を与えてきたことを示している。まず、比較政治学のアプローチ(比較政治制度論)を使って理論モデルを検討し、日本の地方政治(都道府県レベル)を位置づけた上で多くの基本仮説や補正仮説を導いている。その上で、60年代から70年代前半を革新自治体隆盛期(4章)、70年代後半から80年代を保守回帰の政策変化(5章)、90年代からを無党派知事期の政策変化(6章)に分けている。4、5、6章では、それぞれの時代の特徴や背景の叙述をしたうえで、1章で検討された仮説を元に作業仮説を提示している。これらの作業仮説は、財政データをによって計量的に検討されたり、事例を使って検討されている。

小選挙区から選ばれる知事はマクロな集合財的な政策に関心を持ち、大選挙区から選ばれる議員にはミクロな個別財的な政策に関心を持つという分析があったが、4章にあった革新政党の議席が多いほど土木費や商工費や農水費が高まるいうのは意外だった。なぜなら、革新=福祉で保守のバラマキ政策とは一線を画していたと思っていたので。

理論的に仮説を導いて、その仮説を検証するという本書の研究スタイルはとても学術的(科学的?)だと思うし、こういう研究をぜひやってみたい。

最後に、とにかく良い本だと思ったが、6章では6個しか作業仮説がないのに作業仮説7が出て来て少し戸惑った。まあ、ただの誤植(番号が一つずれてる)だったのだが。

2010年1月2日土曜日

田村元(たむらはじめ。通称タムゲン)のオーラルヒストリーと著作

田村元『政治家の正体』とオーラルヒストリー




田村元は中選挙区時代の三重2区選出の国会議員であった。さらに、田村元は中選挙区制下連続トップ当選連続13回の最高記録を持ち*1、通産大臣などの閣僚を経て衆議院議長を務めた人物である。

郷土出身であり、自民党のそこそこの大物であった田村元が如何なる政治家であったのか?を知りたくて、「オーラルヒストリー」と氏の著作「政治家の正体」を読んだ。

まず、オーラルヒストリーであるが、これは伊藤隆ら近代日本史料研究会が実施したものだ。伊藤隆が主としてインタビュアーをしているが、少し下調べが足りない気がした(ex「政治家の正体」すら読んでいないまま開始されていたり、娘婿が郵政選挙で代議士になっていたことを知らなかったり・・。最もこういう態度が中身を引き出す作戦なのかもしれないが)。

肝心の内容は、建設政務次官の時に伊勢湾台風やチリ津波の後始末をやって選挙に強くなった(特に海岸線)とか、数少ない灯台族・下水道族議員であったこととか、いろいろなことが書いてある。

中でも、田中角栄内閣の時に労働大臣をしていたそうだが、閣議で元旦からのバス・電車の値上げの話が総理から出た時に、「お年玉に値上げということがありますか」「反庶民的」だと言って反対した。そうしたら、当時官房長官の二階堂進が、全会一致原則の閣議で総理の発議に反対は許されないから罷免か辞職だ言う。これに対し、田村は「罷免してもらおうじゃないか」と応じた。結局、総理が間に入って、元旦実施は引き延ばされることになったらしい。

閣議というと、民主党政権になって廃止された事務次官会議で決まったことを閣僚が花押かなにか押して認めるだけの儀式だと思っていたが、こうやって修正されることもあるんだなと思った。(別のところで田村本人も「閣議なんてまったくの形式」と述べている。)

次に、「政治家の正体」である。以下、気になった点を自分なりにまとめて記す。

・田村元が建設委員会の理事だったとき、委員会が開かれないことがあった。建設委員長が委員会を開かなかったのである。それは、この委員長と選挙区が同じある代議士に当時の建設政務次官がその選挙区の予算の箇所付けを、委員長が知る前に教えたことにカンカンに怒ったからである。建設委員長というポストで、早く建設関係予算を知って、俺がつけてやったと地元で宣伝することで、票が集まる。この絶好の機会を建設政務次官の安易な行いによって奪われた。だから、委員長はカンカンになって、委員会を開かずに、建設省を苛めたのである。(委員会が開かれないと、法案が通らないのである)

・大臣になるとカネが集まるという風なイメージが巷にあるような気がする。しかし、田村元が通産大臣を務めたときは大損したらしい。なぜカネが要ったかというと、例えば大臣が海外出張するときに若手官僚もお供として同行し、一流ホテルに泊まるが、官僚にはそれほど高い宿泊費は認められておらず、差額は官僚の持ち出しになる。そこで、田村大臣がその額をポケットマネーで補填してやったのだ。こういうようなことでカネが嵩み、選挙用の政治資金や株を売って捻出したのである。

2010年1月1日金曜日

ルポ「地方政治家」

長沼石根『地方政治家』




収賄事件の執行猶予中に町長に返り咲いた者、市民の冠婚葬祭に全て出席する市長、10期も町長を務めた女性首長、8期連続無投票当選した町長(森喜朗の父親)、5000人もの後援会会員を旅行に連れて行く県議、大学在学中に選挙に出てTシャツにGパンで議会に出席する市議などなど。個性的な地方政治家(首長、地方議会議員)の姿を描いたルポタージュである。出版が1983年とかなり古いので、地方政治家の「今」を知るには、相応しくないかもしれないが、読み物としては大変おもしろかった。

森パパの「(自民)党員であることの誇りはない。(中略)しかし、しがない町長としては、自民党に土下座して頼まねばならないことがいっぱいある。やむ得ざる自民党員なんです*1」という発言には、威勢を誇ったかの党の地方への底堅さを思い起こさせる。

10期務めた松野友町長の8選目、県で唯一の反知事派だったために、県政界をバックに助役が突如立候補した。松野氏は、この助役に後事を託そうとも思っていたが、裏切りを感じ「意地で立候補」し当選したという。県というか知事の介入ってのは、恐ろしいと感じた。

地方政治や地方政治家の動向は何か事件を起こさない限り全国紙には取り上げられないし、地域版や地方紙でも議会活動などの日々の活動を取り上げた記事は少ない。しかし、我々の選んだ政治家は何も国会議員に限られず、名前も知らない地元自治体の議員たちや首長も、住民を代表する政治家なのである。

当選最低得票が少ないという意味で住民にとって一番身近な政治家は市町村議会議員であるが、政令指定都市の市議と人口数千人の村の議員さんでは、その近さも党派性も有権者が求める機能も、かなり違うと思うが、その差が政策のアウトプットにどう影響するのかが気になった(首長も同じだが)。

ちなみに、Tシャツで議会に出ていた市議は、立派なスーツを着て市長としてHPに載っていました。